小谷 文吾さん
今回は引退後、中学校の支援員として子どもたちと関わり、一時的な支援員ではなく、常に子どもたちと関わりたいと強く感じ、2022年4月に大学へ入学し、2024年3月に教員免許を取得して無事に卒業。2024年4月からは小学校の教壇に立っている、元競輪選手の小谷文吾(こたにぶんご)さん(79期)にお話をうかがいました。
――まずは競輪選手になるきっかけと経緯を教えてください。
中学3年生の時に「スラムダンク」という漫画に出会い、インターハイに出場したいと思うようになりました。そこで、毎年インターハイに出場しているウエイトリフティング部がある高校を見つけ、受験することにしました。先生はオリンピックで銅メダルを獲得した元選手で、毎年何人もの選手をインターハイに出場させています。
入学と同時に部活動に入部し、一生懸命練習に取り組みました。努力が実を結び、春の高校選抜大会では7位に入賞することができました。
しかしその後、腰椎分離症を発症し、薬を服用したりサラシを巻いたりしながら練習を続ける日々が続きました。痛みにより、苦しくて逃げ出したくなることもありましたが、インターハイで3位入賞という目標を掲げ、懸命に努力を重ねました。
それでも結果は11位に終わり、ショックで少しやる気がなくなってしまいました。
大学のスポーツ推薦を3つほどいただいていましたが、進路に迷い父に相談すると、「競輪という道もありだよ」と言われました。当時の競輪選手の平均年収が1200万円だと知り、日本で7位に入った自負もあったため、上位75人(合格ライン)なら楽勝だと安易に考え、飛びつきました。しかし、プロの世界を目指すことはアマチュアとはレベルが違い、甘いものではありませんでした。
楽勝だと思って受験しましたが、見事に不合格でした。その代わりに「競輪選手になる」という目標が明確になり、父と20歳までと約束して挑戦することになりました。競輪選手になるまでの期間は、無職で自転車の練習だけをしている生活だったため、近所の目や家族に対して申し訳ない気持ちもあり、人生の中で一番きつい時期でした。だからこそ「絶対に20歳までに」と諦めずに練習に励み、5回目で合格した時は本当に嬉しかったです。苦しい時を乗り越えたからこそ味わえた喜びだと思います。
――競輪選手時代の思い出をお願いします。
今でも鮮明に覚えていますが、8年目にS級へ上がった初戦で準決勝まで進んだ時のことです。「テレビで見ていたスター選手たちの横に自分が並んでいる!」と思い、とても緊張しましたが、同時にすごく嬉しかったです。その時のレースでは大量落車が起き、僕も落車しましたが、気持ちが強く入っていたので一番に起き上がりゴールに向かいました。落車した選手の中では1着でしたが、最終的な順位は4着でした。
とにかく、スター選手たちとのレースが一番の思い出です。現在(取材時)は養成所の校長をされている滝澤正光先生と、千葉記念レースで一緒に走らせていただいた際、「文ちゃんがいつ飛んでくるのか分からなくて警戒していたよ」と声をかけていただきました。僕のことを持ち上げてくださっていると分かってはいましたが、スター選手にそう言っていただけたことが本当に嬉しかったです。
また、観音寺記念のレースでは吉岡稔真さん(65期)と一緒にラインを組む機会もあり、開催最終日には“帝王”と呼ばれていた山田裕仁さん(61期)に「昼行くぞ」と声をかけていただき、自分のことを認識していただいていると感じて感動しました。
落車のつらい思い出もあります。立川で落車し、顔から転倒して辺り一面が血の海になった時のことです。以前、同じような転び方で亡くなられた方がいたこともあり、補助員の方々も怖くて近づけなかったそうで、先生(医師)がバンク内まで入ってきて診てくださったと聞きました。
その時は7時間ほど意識不明で、目が覚めた際には家族がそばにいたため「三重に帰ってきたのかな」と思ったのですが、実際はまだ東京の病院でした。1か月ほどは脳震盪と骨折の影響で三半規管に異常があり、片足で立つこともできませんでした。
その後、約2か月で復帰しましたが、事故当日にS級の特別選抜レースに出場していた海野敦男選手(69期)から「よく戻ってきたね」と声をかけていただいたことが、今でも強く印象に残っています。
練習では、兄弟子がいわゆる「ミスターストイック」というタイプの方で、僕が弱かった時に練習を見てくださっていましたが、これが本当にきつかったです。走って、少し休んで、また走ってと、本数が決まっていないので時間だけが過ぎていき…「次がラスト」と言われた時には涙が出ました。
また、今も現役の中村浩士選手(79期)と一緒に合宿した時のことですが、彼は1本1本に集中する練習方法で、練習後にレーサーシューズを脱ぐと、かかとに汗が溜まっているほどでした。水たまりができているくらいです。間近でそんな練習を見ると、同じ競輪選手と名乗っている自分が恥ずかしく思いましたし、その真剣さに感動しました。中村浩士選手は普段は柔らかい人柄なので想像しづらいのですが、練習になると本当にすごいんです。
あとは、僕はヘラクレスオオカブトが好きなのですが、中川司さん(65期)や鈴木守さん(61期)も好きで、そのことでつながりができました。走り方のアドバイスをいただいたり、面倒を見てもらったりとお世話になりました。福岡に有名な昆虫ショップがあるのですが、鈴木守さんに「一緒に行こうか」と誘っていただき、泊まりがけで行ったこともあります。
――引退と引退後の生活設計はいつごろから考えていましたか?
真面目に取り組んできた分、できる限り長く競輪選手を続けたいという思いはありました。ただ、無理だと感じながら続けることは他の選手に失礼だとも思っていたため、どこかで区切りをつけなければならないと考えていました。
そして「もう次で終わりだな」と思ったタイミングで、引退(代謝)を決意しました。セカンドキャリアについては、引退後に考え始めました。
――なぜ教職に就こうと思ったのですか?
セカンドキャリアを考え始めてから、さまざまな経営者の方に話を聞きに行きました。バナメイエビの養殖やサンチュの水耕栽培にも挑戦し、「これならできる」と思える段階まで進んだこともありましたが、その都度、経営者の方から「そんなに甘いものじゃない。やめた方がいい」と言われ、断念せざるを得ない状況が続きました。
それなら何をやろうかと模索している中で、妻から「やりがいのある仕事を探した方がいいよ」とアドバイスを受けました。子どもが好きなこともあり、保育園をつくろうかと考えました。そんな時、お世話になっている方から「小谷さんは子どもが好きだから、子どもと関われる仕事がいいんじゃないか。気が合いそうな人がいるから紹介しますよ」と声をかけていただき、子ども向けの野外活動を運営している方を紹介してもらい、実際に活動にも参加させていただきました。
その後、ご縁があり中学校の支援員を務めることになり、支援が必要な子どもたちと関わる中で、その子たちが将来のことを考えながら、前に進もうとする姿を目の当たりにしました。そして、「このまま他の子どもたちが別室で授業を受け、そのまま学校を卒業してしまうようではいけない」と感じ、学ぶことの大切さや、多くの人と関わることで将来に希望を持ってほしいと強く思うようになりました。
そこで、教員として子どもたちと深く関わりたい、学校の教員になろうと決意して、45歳で大学に入学しました。
大学に通いながらも支援員の活動は続け、2024年3月には四日市市内の中学校で「人生、山あり谷あり」というテーマで講演を行いました。生徒たちに伝えたかったのは、「努力すれば夢はつかめること」「諦めずに挑戦し続けること」「目標に向かって自分なりのアプローチを考えること」「困難に直面しても正面から向き合うことの大切さ」などです。
講演後には、生徒たちが周りに集まって質問してくれたり、アンケートにも「感じたこと・考えたこと」をたくさん書いてくれました。自分のこれまでの人生が、若い世代の気づきに少しでもつながったと感じることができました。
2024年3月、無事に教員免許取得し大学を卒業できました!4月からは小学校の教員として改めて子どもたちと関わっていきます。
中学校の教員免許取得と保育園建設の夢も諦めていません。
――子どもたちと関わる時に大事なことは?
競輪選手として22年間、真剣勝負で続けてきたのと同じように、子どもたちと向き合う姿勢も真剣勝負だと思っています。
まずは僕自身が子どもたちに対して素直であること。自慢話をしたり、「大人だから経験がある」と偉そうな態度で接するのは違うと感じています。
また、競輪選手時代に限らず、今でも多くの方に応援していただいていますが、人からの応援はやる気につながる、とても素敵なものだと思います。
だからこそ、僕は子どもたちを応援し続けること。そして、「なぜ教員になったのか」「なぜ子どもたちと関わりたいのか」という初心を忘れないことが大切だと考えています。
――今も輝き続けている秘訣は?
一生懸命やっている人が輝いていますよね。どんな職業の方でも、目指すものに対して常に攻めることが大事だと思います。
この範囲内でやればいいと妥協したり、何も考えず毎日を過ごすのではなく、自分で何か目標を立てて、それに向かっていくことが秘訣じゃないですか。
――あとに続く現役選手、後輩の方々にセカンドキャリアのアドバイスをお願いします。
先ほどと同じになってしまいますが、何事も一生懸命やらないと面白くないので、まずは競輪を真剣にやりきってください。
子どもたちの授業でも話しましたが、目指すものがあるなら、人の意見を聞いて自分が持っていない考えも参考にしながら、自分なりに目標を設定して目指していくことが大切だと思います。
ただ、たまにはその目標を見直して、軌道修正することも大事です。
選手をやめたら楽をしたいなと思っていたのですが、何もないと面白くないし、ビールもおいしくない。
現役中も一生懸命でしたが、引退してからも結局は一生懸命やっています。じゃあ、どこで息抜きをするのかと言われたら、別に無理に息抜きをしなくてもいいんじゃないかなと思います。
小谷さんの取材を通じて、数々の感動的なエピソードをお伺いすることができました。
特に印象的だったのは、競輪選手としての厳しい練習と、その中での喜びや苦悩の瞬間です。初めてS級に上がったレースや、落車での苦しい経験などをお聞きして、改めて競輪の厳しさを垣間見ることができました。
教員の道を選んだ背景や、子どもたちとの関わり方には、真摯な姿勢と情熱が感じられました。また、小谷さんの人生観である「目標に向かって、自ら考えたオリジナルのアプローチをする」という精神が、困難な場面でも前進する原動力になっており、人間性を豊かにしていると感じました。
小谷さんの人生は、挑戦と成長の物語であり、その経験は多くの人々に勇気と希望を与えるものでした。今後の活躍と、新天地での新たな挑戦に期待しています。
小谷文吾さん プロフィール
1997年4月16日デビュー(79期)
★選手生活22年 通算成績173勝
2019年7月25日に惜しまれつつ引退
現在は、小学校の教員として大好きな子どもたちと関わっています。