車両運行管理業で活躍する元選手のお話を伺いました!
今回、お話を伺ったのは、株式会社セーフティに就職されている元競輪選手の関根 幸夫(せきね ゆきお)さん。
関根さんは役員車運転士(車両運行管理業務)をされており、大手金融機関をはじめ、複数の大手企業を担当されています。関根さんのご活躍で会社から競輪選手への信頼も厚く、今後もぜひ人材を紹介してほしいと要望があるそうです。
1987年5月2日デビュー(59期)
・選手生活31年 デビュー後、1年で特進してS級へ、S級選手29年間
・通算成績387勝
2018年5月22日に惜しまれつつ引退
現在は、「株式会社セーフティ」でご活躍されています。
◆企業情報◆
まずは、選手時代の思い出をお願い致します。
僕が選手を目指したのは、中学生の時に中野浩一さんの世界選手権プロスプリント10連覇を見て、かっこいいなぁ~僕も中野さんみたいな競輪選手になりたいなぁと思って、高校から自転車を乗り始めました。テレビで放送している大きい大会(特別競輪レース)に出て、いつかはああいう風に走りたいと目標にしました。そして選手になって、その夢が叶った!98年の高松宮記念杯に出場し、決勝に出場する事が出来ました。夢を実現した事が一番の思い出です。
それにやっぱり勝ったレースは思い出です。初めて決勝に出場した川崎記念では、準決勝で坂本さんと戦って、3着に入ったことはいい思い出ですね。坂本さんはロスオリンピックで、“ロスの超特急”とか言われていましたから。あとは、辞める前の福井のレースで、郡司君と決勝が一緒で先行してくれて、それで僕が優勝できた事もいい思い出です。今、郡司君はすごい選手じゃないですか!
僕は強い相手とレースをする方が燃えましたね。自分が本命になって人気があるより、人気がなくて相手をやっつける方が、どっちかというと好きでした。そして、勝った時のお客さんの声援がいいですね。1着を取るとすごい声援をくれて本当に気持ち良かったです。当時はいい時代だったです、お客さんも結構入っていて。その反動で負ければ、すごいヤジですけど、O型なので負けたレースはあんまり覚えていません。
引退を決意したきっかけは?
練習に行く時にバイクを使った日があって、その日の帰り道に、横から車が出てきた!と、咄嗟にブレーキをかけちゃったら、ちょうど白線の上だったので、ツラーっと滑っちゃって、脛の横の骨が折れました。それで入院したら、今度は検査でお腹の腹部動脈瘤とかいろいろ見つかってしまって、そんなこんなで、 1 年ぐらい走れなくて。その後、復帰したんですけど、なかなか調子が上がらずで、9着ばっかりでした。
僕は前で走る先方タイプでどちらかと言うと車券に絡むので、これ以上はお客さんに迷惑をかけられないし、自分はもう連に絡める選手じゃない、選手をしていても無理だなと思って、引退しようと決意しました。
引退後の生活設計を意識し始めたのはいつ頃ですか?
もう子供にお金もかかることもなかったし、当時は退職金もあったので、働かなきゃ食っていけないという切羽詰まった状況ではなく、心にも余裕がありました。だから生活設計を意識してという訳ではなく、引退する事を伝えに選手会へ行った時にセーフティを紹介され、僕は車を運転する事が好きだから、ちょっとこの仕事やってみようかなって、セーフティに話を聞きに行きました。
タクシー運転手やハイヤー関係だと二種免許が必要なんですけど、セーフティは普通免許(一種免許)だけあればできるとの事。わざわざ試験を受けて資格を取ったりする手間がないので、ちょっとやってみようかってね。引退してから 1ヶ月後にはもう入社していました。
自営業は考えませんでしたか?
自営業は、やっぱり最初の資金がいるので、それは危険だなと思って。小さな飲食店でも簡単に2500万とか掛かってしまうんですよね。成功すればいいですけど、せっかく頂いた退職金を注ぎ込んでポシャった時は最悪。
あと、競輪関係の仕事で警備、投票所とかあるじゃないですか。あんまりそういうのは興味ないっていうか、違う世界をちょっと見たいなぁって。
それに正社員になって企業で働く事にちょっと拘っていましたね。
この仕事の苦労はなんですか?
初めての世界なので、専門の育成トレーナーに常に一つ一つを教えてもらい、覚えて慣れていく事の繰返しでしたが、それは別に苦労じゃなったですね。でも道を覚える事が結構、大変でした。東京は、右折禁止とか規制が結構厳しいし、高速に乗る研修で、高速のレーンに寄れなくて乗れずに次の入り口まで行っちゃった事があり、東京の道に慣れる事が大変でしたね。
運転自体は、競輪選手時代から毎日練習に行く時に運転していて、遠征も車で行ったりしていましたし、最後の方は妻の実家が高知だったので、実家に寄りがてら、九州まで車で行っていましたよ。
車の運転が好きなので仕事自体は苦じゃないです。
この仕事のやりがいはどんな時に感じますか?
この仕事は運転と接客なんです。特に接客ですけど運転士には固有のマナーもあって、お客様と特に会話はしないんです。僕から話は絶対しない。お客様から話かけられたら答えますけど、僕から「今日はいい天気ですね。」などと話かける事は、この世界のタブーなんです。だから、「○○先へ出発致します」「間もなく到着致します」ぐらいの会話ですけど、降りる時に「運転うまいね」と一言でも何か声を掛けられると嬉しいですよね。それと会社に戻って、お客様から業務評価の伝言があると、やっぱ嬉しいなぁ。
それからスケジュール管理ですけど、お客様の1 週間のスケジュールをもらって、車の中に10分、20分も待たせないように、事前に行く場所の渋滞情報やどういう建物か検索して、常に降りる反対側につけないルートを考えて、当日、アポイントメントの時間に丁度良く到着出来ると、上手く管理が出来た!と、気持ちがいいですよね。
直近3~4年の間は中止をしていた(社)日本自動車運行管理協会の全国運転サービス士コンテストが、2023年10月14日(日)に開催されて、運転技術とマナー全般を審査されるんです。その大会に初めて出たんですけど、各社選抜された選手50名中、三位に入賞しました!セーフティの社長も応援に来てくれて、その後、祝勝会をしてくれました。嬉しかったなぁ!
就職を選んで良かったことはありますか?
会社に入って 2 年が経った頃のコロナ前の2020年だったと思うんですけど、朝出勤して、ちょっと同僚と話していたら咳き込んでしまいました。そしたら、そのまま意識を失って倒れてしまい、上司が救急車を呼んでくれて、その救急車が到着する前に少し意識が戻って「大丈夫です」って言ったんですけど、いやいやもう病院へ行った方がいいと病院に運ばれまして、検査をしたら白血病と言われ、これは”人生終わった”と思いました。
せっかく就職して頑張ろうと思っていた矢先でした。
入院して抗がん剤などの治療をして、1年ぐらい会社を休みました。それでもね、やっぱ正社員でいたから社会保険で休職扱いにしてもらえて。
やっぱり正社員は大きかったです。契約社員だったら、普通に契約終了ですよね。それに病気が快復してから、他の会社で雇用してもらえるかどうかも分からないですよね。
休職中も保険で給与の6割ぐらいのお金が支給されました。本当にやっぱり正社員を選んで良かったなと思います。
現在は倒れてから、2 年ぐらい経ちますが、全然大丈夫です。
競輪選手時代の経験が役に立っている事は?
僕は、先輩から「成功すればするほど“実るほど頭を垂れる稲穂かな”でいろ!」と言われていました。とにかく強くなればなるほど、謙虚な姿勢を心掛け実践していましたから、今の接客にも役立っています。
あとは、遠征で全国に行っていたので、その土地の美味しい食べ物や店を知っていて、転勤で全国から来る同僚たちと、そういう全国の話ができる事が役立っているかなと思います。
個人的な考えですけど、選手時代に人との繋がりを学んだので、それは社会に出ても役に立つと思います。仲間をどれだけ増やせるかっていう、人生そこかなと思うんですよね。仲間を作っておいた方が人生楽しいと思うから。お金がいくらあっても仲間がいなかったら虚しいですもんね。
あとに続く現役選手、後輩の方々にセカンドキャリアのアドバイスをお願い致します。
選手時代は悔いなく頑張って走って、力尽きたら第二の人生を考えて、先輩が働いているところを見に行ったり話を聞きに行ったりして、そこから考えればいいんじゃないかなと思います。
とりあえず選手時代は年末のグランプリレースに出たいと思うんですよ。選手になったからには、そこを目指して頑張って欲しいです。
それから、競輪選手は競輪以外の経験をしていないから、あんまり社会的に自信がないと思っている人がいますけど、この間OBと話した時に、「競輪選手は、色々な規律をちゃんと守って、上下関係とかでコミュニケーション能力も身につけているから、こんなに出来る奴らはいない」って話になりました。選手時代は、いい加減かなって選手でも、選手時代の厳しさが身についているから、社会に出てもしっかり通用すると思います。
だって、うちの会社には元競輪選手が31名在籍していて、みんな真面目に働いていて評判もいいんですよ。だから、「会社やお客様からもOBがいたら紹介してほしい」と言われてますし。
最後に、やっぱり引退してからも社会には関わっていかなきゃいけないから、コミュニケーションとか人との繋がりとかを大事にしてほしいです。
インタビューを終えて
選手時代の思い出についてお聞きする中で、中野浩一さんの影響で競輪選手を目指し、夢を実現した経緯が感動的でした。競輪選手としての印象深い瞬間や対戦相手との思い出、特に勝利に対する喜びをお聞きしましたが、「勝った時のお客さんの声援がいいです」というコメントからもお客様の声援が力になっていたことが伝わってきました。
また、関根さんが選んだ株式会社セーフティへの就職についても興味深く取材できました。最も印象的だったのは、関根さんが病気を経ても正社員雇用だったことによる安心感とやりがいです。正社員であることがもたらす経済的なサポートや保障が不安を和らげ、再起を支えたことが伺えました。
取材を通して、関根さんの人柄や堅実な姿勢に触れることができ、その姿勢が現在の生活にどれほど寄与しているかが理解できました。関根さんの言葉やエピソードは、現役選手の方々にとっても励ましや希望を与えるものでした。
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