小学校教員になった元競輪選手のお話を伺いました!
今回は引退後、中学校の支援員として子供たちと関わり、一時的な支援員ではなく、常に子供たちと係わりたいと強く感じ、2022年4月大学に入学、2024年3月教員免許を取得して無事に卒業!2024年4月から小学校の教壇に立っている元競輪選手の小谷 文吾(こたに ぶんご)さんにお話を伺いました。
1997年4月16日デビュー(79期)
・選手生活22年 通算成績173勝
2019年7月25日に惜しまれつつ引退
◆情報◆
まずは競輪選手になるきっかけと経緯を教えてください。
中校学3年生の時に「スラムダンク」という漫画に出会い、インターハイに出場したいと思うようになりました。そこで、毎年インターハイに出場しているウエイトリフティング部がある高校を見つけ受験する事にしました。先生はオリンピックで銅メダルを受賞した元選手で、毎年何人もの選手をインターハイに出場させています。
入学と同時に部活へ入部をして一生懸命頑張りました。練習の努力が実り、春の高校選抜大会で7位に入りました。その後、腰椎分離症になってしまい、薬やサラシを巻いて練習する日々が、痛みでキツく逃げ出したい時もありました。でも、インターハイで3位入賞を目標にしていたので頑張りました。しかし、結果は11位になってしまい、ショックで少しやる気がなくなってしまいました。大学のスポーツ推薦を3つぐらい頂いていましたが、進路に迷い父に相談すると「競輪という道もありだよ」と言われて、当時の競輪選手の平均年収が1200万円だと知り、1 回は日本で7位に入った自負があったので、上位75人(合格ライン)ならば楽勝だと安易に思い飛びつきました。しかし、プロの世界を目指すことはアマチュアとはレベルが違い、甘い世界ではありませんでした。
楽勝だと思って受験しましたが、見事に落ちてしまいました。その代わりに競輪選手になるとの目標が明確になり、父と20 歳までと約束をして挑戦することになりました。競輪選手になるまでの期間は、無職で自転車の練習をしているだけの生活なので、近所の目や家族に申し訳ない気持ちで人生の中で一番きつかったです。だから、絶対に20歳までにと諦めず練習に励み、5回目で受かった時は本当に嬉しかったです!苦しい時を乗り越えたから、味わえた喜びだと思います。
競輪選手時代の思い出をお願いします。
今でも鮮明に覚えていますが、8年目にS級に上がった初戦で準決勝まで行った時の事です。テレビで見ていたスター選手たちの横に僕が並んでいる!と思い、とても緊張しましたが凄く嬉しかったです。その時のレースは大量落車が起きてしまい、僕も落車をしましたが気持ちが凄く入っていたので、一番に起きてゴールに向かい落車した中では一着を取りました。実際の順位は4着です。
とにかく、スター選手たちとのレースが一番の思い出です。現在は養成所の校長をしている滝澤正光先生と千葉記念レースで一緒に走らせてもらった時に、「文ちゃんがいつ飛んでくるのか分からなくて警戒していたよ」言って頂きました。僕のことを持ち上げてくれていると分かっていましたが、スター選手にそんなことを言って頂けて嬉しかったです。また、観音寺記念のレースでは吉岡稔真さんと一緒にラインを組めた事もあり、開催最終日には、帝王と呼ばれていた山田裕仁さんに「昼、行くぞ」って声をかけて頂いて、僕を認識して頂いていることに感動しました。
落車のキツい思い出もあります。立川で落車をして顔から転び、辺り一面が血の海になった時の事です。以前、同じ転び方をして亡くなられた方がいたので補助員の方たちも怖くなってしまい近づけず、先生(医者)がバンクの中まで入ってきて見てくれたそうです。その時は7 時間ぐらい意識不明で、気が付いた時に家族がいたので、僕は三重に帰って着たのかな?と現状を把握する事が出来ませんでしたが、まだ東京の病院でした。1 ヶ月間は脳震盪と骨折の影響で三半規管がおかしくなり片足で立つことが出来ませんでした。2ヶ月後くらいに復帰をしたのですが、事故当日にS級の特別選抜レースの選手として出場していた、海野敦男選手が「よく戻ってきたね」と声をかけてくれました。
練習では、兄弟子がミスターストイックっていう感じの方で、弱い時に練習を見てくれていたのですが、これがキツい!走って、ちょっと休んで、また走ってと、本数が決まっていないので時間だけが経ち…「次がラスト」って言われた時は涙が出ました。
また、今も現役の中村浩士選手と一緒に合宿した時の事ですが、彼は1本1本に集中する練習方法で、練習後にレーサーシューズを脱ぐと靴のかかとに汗が溜まっているんです!水たまりが出来ているんですよ。間近でこんな練習を見ると、同じ競輪選手と名乗っている自分が恥ずかしく思いましたし、彼の真剣さに感動しました。中村浩士選手は人柄が柔らかい方なので、なかなか想像できないですけど、練習になると凄いんです。
あとは、僕はヘラクレスオオカブトが好きなんですけど、中川司さんや鈴木守さんも好きで、そのことで繋がりができ走り方とかアドバイスをして頂いたり面倒を見てもらいました。福岡に有名な昆虫ショプがあるのですが、鈴木守さんに「一緒に行こうか」と誘って頂いて、泊りがけで行ったこともあります。
引退と引退後の生活設計はいつごろから考えてましたか?
真面目にやっていましたから、ギリギリまでは競輪選手を続けていたい思いはありましたが、もう無理だなと思いながら続けていくのは、他の選手たちに失礼なので代謝をしなくてはいけないと思っていました。ですので、もう次で終わりだなと思った時に代謝を決意しました。セカンドキャリアについては引退後から考え始めました。
なぜ教職に就こうと思いましたか?
セカンドキャリアを考え始めてから、色々な経営者の方に話を聞きに行き、バナメイエビの養殖やサンチュの水耕栽培に挑戦して、これなら出来るという段階になると経営者の方に「そんなに甘いものじゃない。やめた方がいい」と言われて断念しなくてはならない状況が続きました。
それなら、何をやろうかと模索している中、妻から「やりがいのある仕事を探した方がいいよ」とアドバイスされて、子供が好きなので保育園を作ろうかと考えていた時にお世話になっている人にも「小谷さんは子供が好きだから、何か子供と係わるような仕事がいいんじゃないか。気が合いそうな人がいるから紹介します」と子供向けの野外活動を運営している方を紹介してもらい、活動に参加をさせて頂きました。
その後、縁があり中学校の支援員をさせて頂き、支援が必要な子供たちと係わり、その子たちが将来の事を考える様になり前に進んでいく姿を見て、このまま他の子供たちが別室で授業を受けて、それで学校を卒業してしまうようではダメだと思い、学ぶ事の重要性や沢山の人と係わって将来に希望を持って欲しいと強く感じ、教員として子供たちと深く係わろう!学校の教員になろうと決意して、45歳で大学に入学しました。大学に通っている間も支援員の活動は続けており、2024年3月に四日市市内の中学校で『人生、山あり谷あり』というテーマで講演を行いました。生徒たちに伝えたかったことは、「努力したら夢はつかめるもの」「諦めないで挑戦し続けること」「目標に向かって、自ら考えたオリジナルのアプローチをする」「何か難しいことがあっても、正面から向き合うことが大切」などです。講演後、生徒が自分の周りに集まって質問してくれたり、講演後のアンケートに「感じたこと・考えたこと」を沢山書いてくれて、自分の人生が若い世代の気づきに少しは貢献できたと思います。
2024年3月、無事に教員免許取得し大学を卒業できました!4月からは小学校の教員として改めて子供たちと係わっていきます。
また、中学校の教員免許所得と保育園建設の夢も諦めていません。
子供たちと係わる時に大事な事は?
競輪選手生活22年、真剣勝負で続けていた時と一緒で、子供たちと向き合う姿勢も真剣勝負です。僕が子供たちに素直にならないといけない。自慢話や大人なので経験値があるからと偉そうな態度で接する事は違うと思っています。また、競輪選手時代に限らず、今でも沢山の方に応援して頂いていますが、人からの応援はやる気が出るので、すごい素敵だなと思います。だから、僕は子供たちを応援し、僕自身がなんで教員になったのか、子供たちと係わりたいのかという初心を忘れないことだと思います。
今も耀き続けている秘訣は!
一生懸命やっている人が輝いてますよね。どんな職業の方でも目指すものに対して常に攻めることが大事。この範囲内でやればいいと妥協したり、何も考えず毎日を過ごすんじゃなくて自分で何か目標を立てて、それに向かっていくことが秘訣じゃないですか。
あとに続く現役選手、後輩の方々にセカンドキャリアのアドバイスをお願い致します。
先ほどと同じになってしまいますが、何事も一生懸命やらないと面白くないから、まずは競輪を真剣にやりきってください。
子供たちの授業でも話ましたが目指すものがあるなら、人の意見を聞いて自分が持ってない意見を参考に、自分なりに目標を設定して目指していく!でも、たまには設定も見直して軌道修正をすることが大事です。
選手をやめたら「楽をしたいなぁ」と思っていたんですけど、何もないことは面白くないし、ビールがおいしくない!
現役中も一生懸命だったけど、引退してからも結局は一生懸命やっています。じゃあ、どこで息抜きするんだと言ったら、別に息抜かんでいいんじゃないかなって思います。
インタビューを終えて
小谷さんの取材を通じて、数々の感動的なエピソードをお伺いすることができました。
特に印象的だったのは、競輪選手としての厳しい練習と、その中での喜びや苦悩の瞬間です。初めてS級に上がったレースや、落車での苦しい経験などをお聞きして、改めて競輪の厳しさを垣間見ることができました。
教員の道を選んだ背景や、子供たちとの係わり方には、真摯さと情熱が感じられました。また、小谷さんの人生観である「目標に向かって、自ら考えたオリジナルのアプローチをする」という精神が、困難な場面でも前進する原動力になっており、人間性を豊かにしていると感じました。
小谷さんの人生は、挑戦と成長の物語であり、その経験は多くの人々に勇気と希望を与えるものでした。今後の活躍と、新天地での新たな挑戦に期待が寄せられます。
掲載日:2024年4月30日
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